本当に「自分の考えやしたい事」をできるようになりたいのか。
自分がしたい事をする。
自分が言いたい事を言う。
多くの人が求める在り方なのではないでしょうか。
やろうとしたけど否定されたからできなかった。
言ったけど否定された。
こういう経験、ありませんか?
自分がしたい事をする。
自分が言いたい事を言う。
それは、社会では多くの場合、否定されるものです。
何故でしょうか?
大多数の人間には、数えきれない程の「こうあるべき」「こうして当然」「こうする事が普通」の考えがあります。
それから外れる事を、「ダメな事」とか、「間違い」とか、ひどい場合は「悪」と信じ込んでいます。
だから、それから外れる言動をする事は、その人間にとっては許されない事であり、何としてでも阻止しなければならない事だと信じ込んでいます。
だから「あなたのためを思って」という、その人間の善意感や使命感や正義感によって否定します。
どんなにあなたが「自分の考えやしたい事」を説明しても、理解を求めても、その人間は理解しないでしょう。
何故でしょうか?
その人間は、その「こうあるべき」「こうして当然」「こうする事が普通」の考えに、その人間自身の存在価値を置いているからです。
この考えを否定する事は、自身の存在価値をも否定するに近い事です。
だから、その人間は、理解しようとはしません。
その上で考えてみて欲しいのです。
あなたがその「自分の考えやしたい事」をするためには、その人間の理解や受け入れが必要ですか?
理解してもらうために費やす時間や労力は報われますか?
「こうあるべき」「こうして当然」「こうする事が普通」の考えに反する言動は、多くの人間に、社会で、否定されます。
「自分の考えやしたい事」は、多くの人間に、社会で、否定されます。
そういうものです。
だから、「自分の考えやしたい事」はできない。
評価や認めてもらわないとできない。
そう思うならしなければいいと思います。
「自分の考えやしたい事」は、社会で否定されます。
それが現実です。
ただそれは、「自分の考えやしたい事」が間違っているという事ではありません。
人間の内面の成り立ちによって否定されるだけです。
社会が否定するのは、その人が間違っているからではありません。
社会を構成する多くの人間の、存在価値と思い込んでいる所からあなたが外れているから、それを正そうと否定するのです。
社会も人間も、正しい判断をする訳ではありませんから。
「自分の考えやしたい事」をしたい。
とても素敵な気持ちだと思います。
ただ、言葉で言っているだけでは、その人の言っている「自分の考えやしたい事」が本当にそうなのか分かりません。
もしかしたら、そういう自分でいなきゃと思っているのかもしれません。
その考えや行動は否定されるかもしれない。
それでも、それをしたいかしたくないのか。
社会で否定されようとされまいと、評価されようとされまいと、「自分の考えやしたい事」をするのか。
そこにその人が立たないと、その人が言っている「自分の考えやしたい事」を本当のしたいかどうか分からないと思います。
そして、それでも「したい」と思った「自分の考えやしたい事」。
その考えやしたい事は、きっとその人にとっては「自分の答え」なのでしょうし、将来的にはもしかしたら、「自分の考えやしたい事」を否定した人間にとっても、「正解」になったり、「善」になったりする事なのかもしれません。