第3話 子宮外妊娠

その当時、私は自宅で子供に勉強を教える仕事をしていました。
その頃はちょうど、生徒の一人が受験の最中だったので、どうしても仕事を休む訳にはいきませんでした。

けれど子宮外妊娠の場合、出血や腹痛が始まるとすぐ手術をしなくてはならないので、いつ急に授業ができなくなるか分かりません。私の体の中には爆弾があるようなものでした。
子宮外妊娠の可能性があると言われたその日から、私は変わりました。

一日教える度に、『もう二度と教えられないかもしれない。私の知っていることはできる限りこの子に伝えておきたい。』と一分一秒さえも惜しみ、いつもよりさらに厳しく教えました。
後で聞いたのですが、

「あの時の先生は普通じゃなかったよ。本当に怖かった。」

と、生徒は笑いながら言っていました。
確かに今思い出しても、あの時の私は普通ではなかったと思います。
この受験の大事な時期に、生徒の傍にいてやれないかもしれない…。その不安を少しでも打ち消そうと、せめて志望校に合格できると確信できるまでは授業しなければならないと、一日一日必死でした。

そしてようやく、合格できると確信しホッとした次の日の朝、左の下腹に鈍い痛みを感じました。
けれど大した痛みではなかった為、心の中で過ぎった不安を抑え、そのまま授業を始めました。
しばらくすると、今までに経験のないような強い痛みに変わりました。
どんどん大きくなった不安は確信に変わり、突然、死の恐怖に襲われた私は、こっそり隣の部屋から主人に電話しました。

「お腹が痛むんだけど、今授業中なんよね。」

「アホか!すぐ病院へ行け!タクシーを呼べ。後から行くから。」

主人に怒鳴られ、ハッと我に返った私は、病院に電話した後ノロノロと生徒の所に戻りました。

「ごめん、お腹が痛いからちょっと病院に行ってくるね。」

驚き心配してくれている生徒を笑顔で見送った後、タクシーを呼んで外へ出ました。
主人が連絡してくれたのか、そこには主人の父と母が待ってくれていました。
タクシーを断り、義父の車で病院に向かいました。私のお腹の痛みはどんどんひどくなり、少しの振動でもお腹に響いてきます。

病院に到着すると、先生は診察室で待っていました。たいして質問もされないまま、すぐベッドに横になるよう指示され、お腹に機械を当てられました。

「分かりますか。お腹は血の海で腸が泳いでいるわよ。すぐ手術します。」

「それは子宮外妊娠ということですか。」

「そうです。」

その答えは予想していましたが、いざ現実として突きつけられると、目の前は真っ暗になりました。ショックでしばらく口をきけませんでしたが、何とか声を絞り出すようにして聞きました。

「私は、これから子供を産めるのでしょうか。」

「そのように努力します。」

私は不思議と涙が出ませんでした。
麻酔科に電話している先生の傍らで、放心状態のまま座っていた私は、看護婦さんにトイレに行っておくようにと言われました。ようやく我に返り、何とか一人で立ち上がり普通に歩こうとしたのですが、左足を動かす度に下腹がひどく痛みます。左足を引きずりながら、何とかトイレに辿り着き便器に座ると、便器の中は赤く染まりました。その時、このお腹の子は本当に死んでしまったんだと初めて実感し、ショックでしばらく動けませんでした。

それからは病室に移され、次から次へと検査と説明が行われました。その合間に、私は義母に生徒へ電話するよう頼みました。
今から手術するのでしばらく授業ができない。そして今の実力ならちゃんと合格するので、自信を持って頑張るように。そして問題集の課題も出しておきました。

本当は、生徒を安心させるため、私の口から伝えたかったのですが、看護婦さんに止められ仕方なくお願いしました。

今思い出しても、この生徒には申し訳ないことをしたと思います。
受験の最中なのに…。その事を思うと、今でも胸がしめつけられます。

検査が全て終わり、手術室へ運ばれるのを待っていると、主人がやってきました。
主人の顔を見た途端、気が緩んだのか、初めて涙が一粒こぼれました。
先生に、主人が来るまで手術を延ばしたら命が危ないと言われていた為、手術前にはもう会えないものと思っていました。だから急に、今まで胸の奥にしまいこんでいた悲しみがこみ上げてきました。言いたいことがたくさんあるのに、一言でも話すと涙が止まらなくなりそうで、主人の言葉にうなずくのが精一杯でした。

病院に到着して二時間ほどで手術は始まりました。腰椎麻酔なので、先生や看護婦さんの会話をボーっと聞きながら天井を眺めていました。

後で聞かされたのですが、妊娠六週目でした。正常な妊娠なら心臓が確認できる頃です。

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