第12話 夫婦

死産・流産経験者の会と出会い、長年抱えてきた「理解されない苦しみ」をふっきる事ができた私は、大きく一歩前進したように感じました。
会の方々は、子供を亡くした状況は各々違っていても、胸に抱える悲しみや苦しみは私と同じでした。しかし、「子宮外妊娠は死産でも流産でもないのに、この会に加えてもらっていいのだろうか」という遠慮のようなものがありました。

その会と、メールでのやり取りの回数が増えるにつれ、同じ悲しみを抱える方々と親しくなりました。
気がつけばいつの間にか、以前持っていた遠慮は消え、子供を亡くした一人の親として自然に彼女達と接していました。

表に出せない悲しみ故に苦しんでいる方々の言葉は、私の感情を激しく突き動かし、私だけがこんな辛い思いを抱えて生きてきたわけではない事に気付かされました。そして、表に出す事ができず、心の奥深く閉じ込めてきた私の感情はブログ内で思い切り爆発し、制止できない状態となりました。

ブログ内で「子供を亡くした悲しみとあの子に会いたかった思い」の話題の回数が重なるにつれ、主人から「何度も何度もあの事を書くのはいい加減やめてくれ!」と苦言を言われました。

八年も経った子宮外妊娠を未だ引きずっている私を、心配して見るに見かねての言葉だったのでしょう。
今思えば、もしかしたら自分の心の古傷をえぐられ、たまらず発した言葉だったのかもしれません。

しかし私は、主人が眉をひそめ苦言を言う度、『男だから女の気持ちなんか分からないんだ。』と孤独感が更に深まりました。
無言での抵抗を繰り返し、頑なに感情を吐き出し続けました。

その様な中、ある人から、「子供はお腹の中に宿った時から既に魂も宿っている」という話を聞きました。

亡くなった子供が一つの命として認められ、喜びで涙がこみあげました。と同時に、長年供養一つ、手を合わせる事さえもしていなかったという申し訳なさで、胸は張り裂けんばかりでした。

主人にその思いを正直に伝え、最後にこう言いました。

「あの子を供養してやりたい」と。

主人は黙ってうなずきました。

主人と相談し、次の命日に水子供養を行う事となりました。
子宮外妊娠からまる九年。
初めて行う水子供養でした。

供養前に、様々な小物を買い揃えました。
線香立て・ろうそく立て・キャラクター入りのコップ・ぬいぐるみ・・。
それらの物は、何百円の小物ばかりでしたが、わが子のために一つ一つ選び、買い物する時間は実に充実した楽しいひとときでした。
また、当時産着一枚買ってやれなかったわが子に対する償いのときでもありました。

二月四日。私達の見守る中ささやかな水子供養が行われました。
読経の最中、私の涙が止まる事はありませんでした。
それは悲しみの涙ではなく、やっとあの子を一つの命として認めてやれたという喜びの涙でした。

供養が無事終了し、駐車していた車に乗り込む時主人はポツリと言いました。

「もっと早く供養してやれば良かったな。」

その時初めて、主人は主人なりの「亡くなった子供への思い」があり、様々な感情をずっと引きずって生きてきたんだという事に気付きました。

子宮外妊娠・不妊治療・・。
試練が目の前を立ちはだかる度、私達夫婦はぶつかり合ってきました。
その都度私は、主人は無理解だと心の中で責めながら一人嘆き悲しんでいました。

辛い時や苦しい時でも、労わりの言葉もなく、優しい言葉一つかけてくれる訳でもない。
一緒にいても常に自由で、新聞を読んだり、テレビを観てはケラケラと笑ったりしているような能天気な主人・・。

しかし今、過去を振り返ると、私の傍には必ず主人がいました。

子宮外妊娠のための緊急手術の時、主人の職場が遠方だった為、手術に間に合うよう制限速度をはるかに超えたスピードで車を飛ばし、病院にやって来てくれた事をほんの一ヶ月前に話してくれました。

体外受精の治療の過程でも、仕事の合間をぬっては私に付き添い、共に病院へと足繁く通ってくれていました。

私は、ずっと孤独だと思っていました。
しかし、今までの一つ一つの試練は、実は主人と共に苦しみ、乗り越えてきたものだったのです。
その事に気がつくまでに九年の歳月が経っていました。

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