第11話 消えぬ悲しみ

幾多の試練を乗り越え、私は本来の明るさと快活さを取り戻しました。
しかし心の中では依然として闇を抱え続けたままでした。

その事と直面するのは、決まって毎年二月四日 – 子宮外妊娠による卵管摘出手術を受けたその日でした。
普段は考えないようにしていても、その日だけは逃れる事ができません。心は乱れ苦しみ、この場にいるはずのないわが子を捜し求めては自然と涙がこみ上げ、あの手術の時から全く前に進んでいない自分を痛感します。
しかし、一生悲しみ苦しみ続けなければならないのかと沈む反面、亡くなった子供への思いは年月を経ても変わっていない事に安堵して救われる気持ちもありました。

ある時ふと、「あの子が生きていた証を何か残したい。今のわが子達に兄か姉がいたという事を知っておいて欲しい。」
それらの思いが堰を切ったように溢れ出し、亡くなった子供とその妹・弟達への心の内を書き綴り始めました。
毎日昼も夜も、手が空くと原稿用紙に向かい、一晩夢中で書き続け、気がつけば空が明るくなっていた事もありました。
それを書く事によって苦しみや悲しみから解放され、楽になれるのではないか、という期待があったのです。
しかし、ずっと心に閉ざしてきた過去を書く事は、思いのほか悲しみや苦しみと向かい合わなければならず、予想以上に辛い作業となりました。それでも溢れ出てくる思いは止める事ができませんでした。
書いた内容を涙を拭いながら読み返し、「私の気持ちはこんなんじゃない」と書き直す・・。そんな事を数え切れないほど繰り返しました。
当時は、将来その時の原稿が本として出版されるとは夢にも思っていませんでした。

私の思いの詰まった文章は、運良く出版されるに到りました。
涙が出るほど嬉しく、「これでやっと楽になれる」と思いました。
しかし、その後もなお、悲しみや苦しみから解放される事はありませんでした。

何年経っても、子供を亡くした悲しみや苦しみは変わらず、「あの子を抱きしめる事も成長を見ることもできない」という思いが強くなるばかりでした。
誰からも祝福されず、たった一人でこの世を去り、誰からも見送ってもらえなかったわが子・・・。

それに本当は、あの時 – あの子を失った時、私は声を上げて泣きたかった。
思いっきり泣かせて欲しかった。

子宮内ではないにしても、あの子は確かにお腹の中に着床し、六週間育っていたのです。
100パーセント産まれる事ができない命であっても、私からすれば愛おしいわが子に違いありません。

世間の反応はそんな思いとは裏腹に、悲しみを口に出す事も涙を流す事さえもはばかりました。
当時は、単に病気を手術しただけかのように振舞う人が多く、悲しみを表に出す事を避ける傾向がありました。
まして世間においては、子宮以外に受精卵が着床する子宮外妊娠では、『摘出物』。流産・死産のように子宮内の子供を亡くした場合は『小さな命』。
決して同じように認識してはもらえませんでした。一つの生命が消えた事に変わりはないのに・・・。
私は感情を無理矢理抑えこみ、不妊治療などに励む事で前向きに生きようとしましたが、あがけばあがくほど心の闇は更に深まるばかりでした。

数年後、私の出版本のホームページを立ち上げた事がきっかけとなり、ある女性と知り合う事ができました。そして、その方から死産・流産経験者のための会があり、その会は子宮外妊娠経験者も受け入れている事を知らされました。

早速インターネット上で見たその会のホームページは、私に大きな衝撃を与え、ずっと心の奥で押し殺していた悲しみの感情を激しく揺り動かし始めました。

子宮外妊娠もお腹の子供を亡くした事と見なしている人達がいる。そして、こんなにも多くの人達が私と同じように苦しんでいる。

とめどなく涙が溢れ、「一人じゃなかった」という感情で胸がいっぱいになりました。
そして同時に、その会に集う方々の訴える悲しみや苦しみが、過去の胸の内と重なり、切なさで胸が詰まりました。

もし、あの子を亡くした時この会と出会っていたなら、こんなに苦しむ事はなかったかもしれません。

心の奥にその時までくすぶり続けていた悲しみを表現する事で、「あの子と私の時計」の針がようやく前に進み始めた様な気がしました。

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