第6話 子供が欲しい

退院して一ヵ月後、卵管が通っているかどうかを調べる検査をしました。
造影剤を入れ、子宮をレントゲンで写しましたが、造影剤が漏れたらしく、うまく写らず失敗に終わりました。

その一ヵ月後、再び同じ検査をしました。
モニターを見せてもらうことを許された主人の話では、最初はなかなか卵管が見えなかったそうですが、しばらくしてスッと卵管が見えたそうです。
一応卵管が通っているということが確認でき、少しほっとした私は、その後、そのまま通院して不妊治療をしていくことに決めました。

不妊症であることを認めざるを得なかったあの退院の日から、私は少し変わったように思います。
人から、「子供はまだ?」と言われても、前ほど嫌悪感を覚えなくなり、少しずつ夫婦二人だけの人生についても、冷静に考えられるようになりました。
その一方で、まだ子供を諦めきれない私達は、通院し先生の言葉を忠実に守ることで希望をつないでいました。

テレビでは、ゴミ袋から胎児の遺体が出てきたとか、乳児の夜泣きがひどいからとせっかん死させたとか、信じられないニュースが度々流れています。
その度に私達は、『じゃ、なぜ子供を作ったの?そんなにいらない子なら私達にちょうだいよ!』と、ものすごい怒りがこみ上げるばかりでした。
なぜ神は、そんな人達に子供を授けるのでしょうか。世の中には、子供が欲しくてもできない夫婦が大勢いるというのに…。

私はその子供を殺した人達に、怒りを超え憎しみさえ感じていました。
あの時の私は、まだ深い悲しみの中から抜け出せずにいました。
人の形にさえなっていなかったわが子でも、一人で逝かせてしまった事がかわいそうで、思い出してはよく泣いていました。そんな私にとっての僅かな救いは、私の体の一部である卵管に包まれて逝った事。そして、あの子が生きていた証が手術の傷跡として、体に刻まれたことです。

ずっと悲しみから抜け出せない私は、早く気持ちを切り替えて先に進まなければと焦りました。
しかし、他の事で気を紛らわそうとしても、もうお腹の中は空っぽだという寂しさと悲しみがこみ上げてくるばかりです。そして、もう二度と子供を作ることができないかもしれない…。
そんな大きな不安が足かせとなり、ずっと私を苦しめ続けました。
ちょうどその頃、ある人に子宮外妊娠のことを、

「そんなことぐらいで…。」

と言われ、私は更に苦しみました。
いつまでも心の整理をつけられないのは、どこかおかしいのではないかと本気で悩みました。
そんな私を心配して、周囲の人は子供の事は絶対言わないか、

「そのうちまたできるよ。」

とか、

「早く忘れたほうがいいよ。」

と言ってくれていました。
しかし、その時の私は普通ではなかったのでしょう。その言葉一つ一つに傷つき、自分を追い詰めていきました。

『お腹に傷があるのに、どうやって忘れろって言うの!生理が来る度、私がどんな思いをしているかあなたに分かるの!赤ちゃんがテレビに映ったからってチャンネルをかえないでよ!同情なんて真っ平!亡くなった子は二度と戻ってこないのよ!またできるなんて簡単に言わないでよ!』

実際、これらの言葉を口にしたことはありませんが、私は心の中でいつも叫んでいました。

そして主人もまた、悲しみから抜け出せず、もがき苦しんでいたのだろうと思います。
手術室の前で頭を抱えて泣いていたこと。私の入院中、一人でいるのがたまらなかったのでしょう。
近所の友達夫婦を呼んで、酒を飲み号泣したこと、人から聞きました。
そんな主人は、毎日毎日悲しんでいる私を、どんな思いで見ていたのでしょう。
そんな時主人が私に言った、「早く忘れろ」という言葉…。
それは主人自身にも言い聞かせていたのではないか…。

私は、そのことを最近になってようやく気づきました。けれどその時の私は、『誰も私の気持ちを分かってくれない。』と、頑なに自分の殻に閉じこもっているばかりでした。

そんな中、義姉から電話がありました。その時義姉は、

「つらかったね。」

と声をかけてくれました。

義姉は出産時に最初の子を亡くしています。
義姉のこのたった一つの言葉は、私の心にまるで乾ききった砂に水をまいたかのように、すっと沁み込んでいきました。
私は、ずっと義姉や兄の悲しみを分かったつもりでいたのですが、本当は何も分かっていなかったのです。

私はたった六週間子供がお腹にいただけでこんなに悲しいのに、十ヶ月間もお腹の中にいた子を失った悲しみはどんなに深いだろう。
子供が産まれた時の夢も描いていただろう。
子供の物もいろいろ揃えていただろう。

後にも先にも、そのことについて話したことはありませんが、この時初めて義姉の悲しみに触れた気がしました。

病院に通い始めて一年が経とうとした頃、先生から話がありました。

「このままこの病院に通ってもいいけど、早く子供が欲しいのなら、体外受精をした方がいいと思うの。ここでは体外受精はできないから、S病院で検査だけでも受けてみない?」

と言われました。正直言ってショックでしたが、この時は既に、こういう日が来ることを覚悟していました。

先生の助言に従い、私たちは不妊治療専門のS病院に通院してみることにしました。
その病院の駐車場には多くの県外車があり、待合室には大勢の患者さんが待っていました。

車椅子に乗った人、大きなスーツケースを持って飛行機の時間を気にしている人、四十歳過ぎでしょうか、少し年配のご夫婦、どこかの国の民族衣装を身につけた外国人…。
深い悲しみや不安を心の奥に秘め、犠牲を払いながらも必死で不妊治療を続けている人達がこんなに大勢いると気がついた時、ようやく私の中で、あの手術の日以来止まっていた時間(とき)が、ゆっくりと流れ始めました。

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