第7話 最後の戦い

体外受精四回目。「これが最後…」と、私は全精力を傾注しました。
この最後の戦いは、診察から治療に至るまで、全てを院長先生に委ねる事となりました。

診察や治療の際かけられた先生の言葉には、「大丈夫。一緒に頑張ろう」という温かい励ましのメッセージがいつも感じられました。
日々、胸の中で先生の言葉を呪文のようにつぶやき「負けない!」と治療に励みました。

最後となる今回のチャレンジは、生活の細部に至るまで、今までになく最上の注意を払いました。たとえ、今回妊娠できなくても後悔の念が残らないように。
「私達はやる事はやった。」と前を向いて歩き出すため、治療過程の一つ一つに納得しながら体外受精を進めていきました。

治療を黙々と続ける一方、子供のいない人生の模索も始め、私自身を静かに見つめ直していました。

「私は本当に子供が欲しいのだろうか。
周りから言われるから欲しいのか。
本当に子供が欲しいのなら、血のつながりがない子供でもいいのではないか。」

最後の体外受精への過程は、自問自答の繰り返しでした。

丁度その頃、里子制度の特集記事が新聞紙面に掲載されていました。
その関連記事を読みあさり、少しずつ里子制度について理解を深めていくと、親の身勝手な都合で離別する子供達の急激な増加に反し、親代わりとなる里親の不足という深刻な実態を知りました。

また一方で、子供ができないと悩み苦しんでいる人々の増加・・。

神さまが本当に子供を欲しいと願う人に子供を授けていたなら、こんな悲しい事態にはならなかったのにと憤りを覚え、やりきれない思いがこみ上げました。

治療は最終段階に入り、受精卵を戻した際、「次の戻しはお腹に穴を開けないと無理でしょう」と告げられました。
私は心の中で、
「もう次はないんだ…。」と胸の中に広がる虚しさを感じました。

戻し後、「あと何日かで、大きな期待から絶望へと打ちのめされる日が来るかもしれない」事への恐怖に怯えました。
子供を持つ夢を失った時を想像する事はあまりにも辛く、耐え難い事でした。

その時の私の中の思いは、
「やっぱり私は子供が欲しい。
愛情を注ぎ抱きしめる子供が欲しい。
子供を慈しみ育てたい。」
ただ純粋にそれだけでした。

数日後、長年夢見てきた、新たな小さな命が私のお腹の中に宿った事が判明しました。

今でも子供が欲しいという気持ちは、たとえ子供を授かる事ができなかったとしても変わらなかっただろうと思います。

ようやく妊娠反応が現れた事を涙ながらに喜んだのも束の間、次の第二ラウンドは「多胎の妊娠と出産はハイリスクである。」という厳しい現実でした。そしてその事を否応なく痛感する事となりました。

妊娠中の生活は、かつて憧れ夢見ていたマタニティライフとは全くかけ離れたものでした。
妊娠初期は、常に出血の有無に過敏に反応して流産の恐怖に怯え、安定期に入ってからもお腹の張りがある度、陣痛ではないかという不安に駆られました。

切迫早産による入院生活は本当に辛い日々でした。しかし、子宮外妊娠の時の入院とは全くかけ離れた感覚でした。

子宮外妊娠による手術後の入院生活は、毎日が地獄で、
『子供を摘み取った今、麻酔の副作用による吐き気や創口の痛みを、何の為に我慢しなければならないのか』と、虚しさと絶望感に涙が溢れてばかりでした。
人から「がんばれ」と励まされても、ただ虚しく、『何のためにがんばればいいのだろうか』と、悲しみと憤りがこみ上げるばかりでした。

しかし、切迫早産による今回の入院は、子供を無事に産むため・・。
どんな苦痛も耐える覚悟は人並みならぬものがあったと思います。

安静を強いられた二ヶ月にも及ぶ寝たきりの入院生活を私は必死で耐えました。しかし、「もしまた駄目だったら・・」という不安と恐怖感はいつも、私の心の奥底に重く圧し掛かったままでした。

そして都合三ヶ月の入院生活の末、五月十二日。帝王切開手術により私は双子を出産する事ができました。
今思えば、とても小さな二人のわが子の顔を初めて見た時。その時こそが私の不妊治療にようやく終止符が打たれた瞬間だったのだと思います。

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